小療理屋~こんだ~

2018年12月、25歳で大腸がんステージⅣと宣告されました。料理が好きなのでブログ名は小料理屋とかけました(笑)。前向きな闘病記にしたいです!

今、ここに存在する「私」

「人間は根源的に時間的存在である」 byマルティン・ハイデッガー

 

こんにちは、店主のけんじです。

今日はちょっと小難しい内容になっちゃいますがみんな最後まで読んでね♡

人間哲学的な物なので解釈が違うよーってことがあるとは思いますが大目に見てください!

 

文頭の言葉は存在と時間という本にある一節です。

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哲学書とか難しい本をほとんど読まない僕ですが、この本は読めました。

・あんまり迷わなそうでいいよね

・決断早いよね

これは僕がガン・余命を宣告される前からよく言われていたことです。何が僕をそうさせているのか。

今日はそのことについて「存在」と「死」を考えながら書いていけたらと思います。

 

<現存在について>

僕たち人は、自分自身が人間であると自覚しています。

もし自分を神や仏だと自覚している人がいたら教えてください(笑)。

自分自身を存在する物(存在者)として認識できているため、ハイデッガーは存在者を超越した「現存在」と呼んでいます。

また、彼は現存在が存在するための規定は「世界=内=存在」という存在構成を認識されることとし、世界の世界性、共同存在、世界内存在の3つに構造が分けれるとしました。

 

  • 世界の世界性:僕たちは世界の中にいます。その「世界」とは一体何なのか?これは簡単に言うと「身の回り」です。私という現存在が存在たり得るための性質です。

 

  • 共同存在:僕たちは世界の中にいます。その「僕たち」とはいったい何者なのか?これは「僕」を含めた人のことです。僕は料理が好きですが自給自足はできません。スーパーに買い物に行きます。食材はどうしてそこに並んでいるのか?それは農家さんや、漁師さんなど「他者」が現存在として存在しているからです。ジョージアのCMで良く聞くフレーズ「世界は誰かの仕事でできている」、この言葉僕はとても好きなんですが、共同存在を簡単に言うとこの言葉になるのかなと僕は思います。現存在は他者とともに存在するという性質です。 

 

  • 世界内存在:僕たちは世界の中にいます。その「中にいる」という現象は一体何なのか?これは空間 (世界) の中という位置に僕たちがあるとする性質です。しかし、「ある」というより「なじんでいる」とする方が世界=内=存在という構成を表現でき、現存在の存在を了解できます。

 

<人間は根源的に時間的存在である>

ここまで存在について書いてきましたが、存在と時間について書きます。

建物や地面といった存在は自己的に動くことはありません。しかし人間は自分がなにをしなければいけないか認識したうえで動き、その動きを周りから認識されることで存在しています。

物理学では、物質が時間をかけて空間を移動することが原則であり、「時間=距離÷速度」という関係があります。また、物質は存在(そこにあるもの)と考えることもできます。

現存在である人間は存在(存在の動き)を認識できるので、人間が「時間」と言う概念を生み出していると考えることが出来ます。

また時間という概念がないと行動の起点、終点を作れないことから時間に支配されていると考えることも出来ます。

自分たちで自然に生み出している時間に捕らわれて生きている…セルフSMプレイですね。人間にSとMという考えが生まれるのは必然だったのでしょう()。

 

<死について>

同書でハイデッガーは「死」についても分析していました。

先ほどまで書いてきた「現存在」ですが、死によって終わりを迎えます。

死ねば動くことはなく、存在を認識することも出来ません。現存在から存在になります。現存在でいられる間は、生まれてから死ぬまで。これもまた時間的に支配されています。

死は交換不可能でありいつかは必ず訪れる確実なもの、しかしいつ襲ってくるかは人は知り得ないという無規定なもの。なので人は死を隠蔽し、死への不安を疎外していると彼は述べています。

そして、彼の言葉に

「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することも出来ない」

というのがあります。

死を思い知って死を覚悟するということは、自分が現存在たり得る「生まれてから死ぬまで」という全体をとらえることができるということだと考えます。

なかなか死を思い知ることはないと思いますが、僕はおじいちゃんが亡くなった時に死について考えました。初めて身近な人の死に直面し、「あぁ、本当に死ぬと話さなくなるんだな」と実感しました。

伝えたかったことや、やってあげたかったとこは「存在」となった人にもできます。

スカイダイビング体験させてあげたかったなーと思ったら遺骨を背負って自分がスカイダイビングすればよいのです。しかし、相手が感想を言ったり、怖がったりする反応は得られません。「人」という物質として存在していても現存在ではない、僕はこれを死だと考えています。もし、今皆さんが誰かに何かしてあげたいと思っていたら出来るだけ早いうちに実行することをお勧めします!!

 

<迷うこと、決断すること>

最後に、本題の「迷うこと」と「決断すること」について書きます。

この2つの共通点は、「現存在でないと出来ないこと」です。つまり、生きている人間にしかできない贅沢なことです。違う点は迷うことはインプット、決断することはアウトプットであることだと考えます。

迷うことは一見マイナスのイメージと思いがちですが、迷い無しでは決断できません。

迷うことは考えることで必要だと僕は思います。なので、決断が速いと言われていても何も考えてないわけでは無いとこの場で弁明します(笑)。

迷うことは必要と言っていますが、迷い続けるのが良いとは思いません。ひたすらにインプットを続けていても自分の心が容量オーバーすることもありますし、なにより他人に伝えることが出来ません。内向的な人は迷うことが多いのかなと個人的に思ってます。

僕は「自分の考えや好きなことを他の人とも共有したい人」だと就活の時期にさんざんやった自己分析で認識しました。自分のしたこと、勧めたことで誰かが幸せになるのはとてもうれしいし、それをたくさんの人にしたいと確かに思っています。

もっと言うと、「現存在」である自分がしたことによって誰かの「現存在性」に影響を

与えたいです。「現存在」である自分がしたことは、自分が死んで「存在」になってからも誰かの中で生き続けていると思います。僕は存在としての死も怖いですが、それよりも自分が誰からも認識されることなくそれでも生きて存在すること、「社会的な死」のがよほど怖いです。

では、そうならないために何をすべきか?

決断し、行動することです。

先述しましたが、僕は「おじいちゃんの死」から時間とは無限ではなく、死はいつか必ず訪れるものと覚悟をしました。それからは、迷うことはあっても迷いの堂々巡りをせずに決断し外に外にと意識するようになったと思います。また、自分一人で迷ってもどうしようもないことは他の人に頼ることが出来るようになりました。頼ることができると、周りからさらに頼られるようになりいい循環が起こっていると思いました。

人は案外優しいし、助けてくれるものだ。そう考えると、迷い→決断までがスムーズに行えます。

こう思えることこそが、僕が

・あんまり迷わなそうでいいよね

・決断早いよね

と言われることにつながると思っています。

 

<さいごに>

僕はガンのステージⅣと宣告され、おまけに平均余命まで宣告されています。

自分はおじいちゃんのおかげで18歳の時に死に対してある程度覚悟が出来ていたのであまり恐怖に感じることはありません (絶対に治ると思っている事のおかげもあります笑)。そして、現存在であるうちに自分が存在したということ・自分の考えを残し、おじいちゃんが僕の中で生き続けているように、それが誰かの考えや生き方の中で生き続けることを願いブログを始めました。

今回の記事が、今迷っている誰かが決断することの力になれたらなと思います。

それでは今日はここらへんで!長文にお付き合いいただきありがとうございましたヽ(^o^)丿