記録:手術後から抗がん剤が始まる前のおはなし
おはようございます。
店主の嫁、まりえです。
久しぶりに書きますね。
なんかここ1ヶ月は気持ちが急上昇、急降下の回数が多くてなかなか整理するまでの気力に持ってけてなかったのが原因かな。
4ヶ月経って何か気持ちに変化があるのかな?とか思っていたけど、人の気持ちって難しいですね。
さて記録を記しましょう。
手術後は本当にフロアを毎日何周もしてました。
1日のうちに10周は確実にやってたかな。人間腹切られても動けるんだなー。っていう生命の神秘に感動してました。
笑うととっっっっっっってもお腹が痛いらしく笑わせてくる看護師さんが悪魔に見えたそうです笑
2日後とかのLINE内容
おなかがね
ごはんをもとめてる
とろろごはん
煮魚も
って来てました笑
この時期の土日はお見舞いに来てくれる人と会いっぱなしの日々で、私はそのスケジュール管理をしてました。
きっと人に会うためには無理するから、けど人に会うことで元気を得る人だからと思って。共通の友人はまとめて時間都合を合わせてもらったり、いろんな方面に状況連絡を入れたりと裏でせかせか働きました。
みんなが会いに来てくれたこと、とても感謝しています。
あいつも元気をもらったでしょうし、私もあの人がいつも通りたくさんの人と話し、笑い、楽しんでいる姿を見て何よりもほっとしました。
手術から4日後にはご飯が始まり、5日後には尿カテ、ドレーン、痛み止め、栄養剤もなくなりました。
米の甘み、温かさを感じ、茶碗蒸しの出汁の味に感動しながら久方ぶりの食事を食べる姿はこちらがうるっとくるものでしたね。
あーーうま。茶碗蒸しうま。最高。
だってさ。
6日後には便もきちんと出て、医者の技術と人間の構造に感動するばかり。
感動してばっかな気がする。毎日が奇跡の連続です。
手術後10日で退院予定だったのでそれに向けて、家での過ごし方、食事とかについて話し合いました。
今後何年か後に寛解する予定だったので、将来のプランの一つとして、抗がん剤で何が起こるかわからないから、精子凍結しといてくれないかをけんじと家族に提案しました。
抗がん剤をやることは手術前から決まっていて、その期間は4週間ないくらい。その間に退院している期間にやってもらわなきゃいけないと思っていたので、スピード勝負だなって。
不謹慎とは思いながらもお願いをしました。
けんじは聞き入れ、彼の両親もすぐに行動してくれました。
病院側はこういうことは提案してくれるものではありません。
治療等についてやっぱり貪欲に聞いて探って何ができるかを考えないといけない。
パートナーしかこういう提案はできないから、どうしてもやってほしいことは伝えて話あうべきかなと思います。
余命宣告について。
抗がん剤が始まる前の説明時に余命宣告が告げられました。
この時、私はそばにいなかったので、その時の様子はわかりません。
結構先生のおはなしって突然くるのです。
常にそばにいれるわけではなく、いないときのショックの受け方が見れない状況のフォローって案外難しい。
部屋にいったら憔悴しているけんじがいました。
余命についてはお母さんが伝えてくれました。2年半くらいだと。
あんまりショックを受けなかったんですよね。
大腸癌治療ガイドラインを読んでステージ4の余命が30ヶ月って書いてあったのもうすでに読んでたから。
ああ、ガイドライン通りに伝えられるんだな。ってのが最初に思ったこと。
後、どーせこやつはそんなことを軽々超えてくれるだろうと信じていた?願っていた?確信してた?から?かな。
本人も覚悟はしていただろうけどやっぱりそんなこと受け入れるというか、聞きたくもないわけで。
まだ25なのに。なんで。死にたくない。怖い。
泣いて泣いて。頭痛くなるまで泣いてました。
抱きしめてさすって泣かせてやることに専念しました。
その時は声なんてかけられないです。けど泣くことは我慢しなかったかな。
泣きじゃくりはしてないけど。
本当に癌に対して私ができることは何もなくて。無力感と怒りしかなくて。
そんでもあいつの心を支えることだけはしたいなって思ってひたすら耐える。
この人が今日穏やかに眠って明日の朝を今日より晴れた気持ちで迎えられることだけを願ってました。
退院は大腸の動きが悪くて年始まで延期になりました。
退院予定の次の日は雪で、病室から雪見てた。それが最後に見た雪やったな。
年末年始はお泊まりして福笑いと花札やりました。
1/2に退院できた。
その時は快晴。
父の運転する車の後部座席で寝るけんじの手を握りながらみた空は忘れない。